また、お会いできて嬉しく思います。筆者の谷利と申します。

 この文章は「王立銃士隊」サイトの中で、メンバーが公開している作品の中の一要素を、歴史的・文化的なアプローチから取り上げてみて、作品の世界観の奥行きを拡げたり、歴史視点から作品に興味をもっていただこう! という試みになります。
 某公共放送の大河ドラマの本編が終わった後に流れる、「○○(作品名)紀行」のようになれば良いな~と考えております。

 なお、作者の方から許可を得ておりますが、アマチュアの歴史好きである筆者個人の緩い歴史考察であり、作者の方からの公式回答ではないことをあらかじめお断りさせていただきます。
 それでは前口上はこれまでとさせていただき、ゆるりと参りましょう。

 今回のテーマは『イリッシュ大戦車戦・改 ~王立空軍物語外伝~』の第10話「クロアのスキピオ」と『王立空軍物語第1部「鋼翼の7人」編』に便乗して「映画」といたしたいと思います。なぜ便乗なのかは本編を読んで頂いければわかるかと思います。(笑)
 よろしければそんな便乗筆者にお付き合いくださいませ。


◯映画の誕生

 「映画」を最初に生み出したのは「発明王」として有名な「トーマス・エジソン」が1888年に発明した「映像観賞装置 キネト・スコープ」と「撮影用のカメラ キネト・グラフ」になります。
 ただ、その頃の彼は自身の会社「エジソン電気照明会社(現:ゼネラル・エレクトリック)」が「ジョージ・ウェスティングハウス」(エアブレーキを発明した人物です)と「ニコラ・テスラ」の陣営と「電気システム」について激しく争っていて余裕があまりなく、エジソンのアイディアを部下が形にしたというのが正しい表現のようです。

 「キネト・スコープ」の映像システムは現在のシステムの基礎といえるものでしたが、「映写機」ではなく木箱を覗きこんで見る一人用の装置でした。エジソンは映画会社を設立し、ホールに「キネト・スコープ」をいくつも設置し観賞する事業を始めたり。「蓄音機」と合わせて「音響映画」を試みるなど映画技術の発展にも足跡を残しています。
 余談ではありますが、「ハリウッド」が「映画の都」となるきっかけもエジソンでした。彼は特許使用料を払わない会社を次々と裁判で訴えており、特許使用料を払いたくない映画会社はいざとなったら隣国「メキシコ」逃げ出せ、ロケ地にも使える「ハリウッド」へと逃げだしたのだとか…。

 「映画」が集団で観れるようになったのはフランスで「シネマトグラフ」と呼ばれる映写機を開発した「リュミエール兄弟」の功績になります。

リュミエール兄弟

 リュミエール兄弟はカラー写真の実用化も成し遂げた「映画の父」とも呼ばれる人物達で映画を初めて興業した人物ともいわれています。


◯映画 日本伝来

 さて、日本では1896年(明治29年)に神戸で皇族を招いて上映されたそうです。その後1897年(明治30年)には映写機による有料興業も始まり日本でも映画の歴史が始まります。
 この時に機械の説明や映画の背景、フィルム交換の間をつなぐ役割として「活弁士」という日本映画独自の職も誕生したのだとか。

 初期は輸入した映画を上映するだけでしたが、やがて自国での映画制作も始まり今日まで名前の残る会社が誕生していきます。

 日本で最初の映画を上映する専門の劇場、「映画館 浅草電気館」を建設した「吉澤商店」と日本で最初に神戸で映画興行を行った「横田商店」を中心に合併して誕生した「日活」。

浅草電気館

 新進気鋭の興行士「大谷竹次郎」は歌舞伎や人形浄瑠璃など江戸時代以前から続く「旧劇」と呼ばれる演劇分野の劇場を次々と傘下に収めていました。そして兄「白井松次郎」と映画業界にも参入していきます。彼ら兄弟の名前から取った会社「松竹」。

 「新劇」と呼ばれる明治以降に始まった「舞台劇」の大家。「宝塚歌劇団の東京支社」に設立された映像研究所が中心となって事業展開を開始した「東宝」。

 第二次世界大戦勃発に伴い、国民世論を統制する事を目的に「ニュース映画」をメインに手掛けるよう政府主導により設立された「大映」。
などが誕生し日本の映画が発展していきます。


◯異世界にはどのように広がった?

 さて、異世界ライズにはどのように「映画」が広がっていったかが今回の考察になります。

 ライズの人々は非常に「演劇」を好み、誇りとしているようですので、普通なら「映画演劇」となります。しかし、初期のサイレント映画はフィルムやカメラの性能が悪い事もあり、役者はオーバーリアクションをして伝えなければならず、歌舞伎役者などから「泥演劇」や「素人演劇」と呼ばれ一段低く見られたそうです。
 当時、人気絶頂だった「9代目市川團十郎」は「蓄音機」を歌舞伎役者達と見学にいったりと好奇心が高いことを見込み、松竹の社長から「映画撮影」を依頼されると「自身と相手役が死んでから公開する事」を条件に引き受けたとか。
 このような要素を鑑みますと「演劇」は直ぐには受け入れられたと考えにくそうですね。

 さて、「映画館」という映画を専門に興行する劇場ができても、地方などでは劇場で役者達が休憩する時間やセットの転換時間など催し物の間に映画が上映されるスタイルは残っていました。
 その際に上映されていた「ニュースフィルム」はライズ世界でも受け入れられたのではないでしょうか?

 テレビが普及するまでは「ニュース」は映画館や劇場で観るものでした。
 特にライズ人が参戦したという「日露戦争」、「第一次世界大戦」の情報は為政者から庶民まで関心が強かったのは容易に推察できます。他にも日本が初めて選手団を派遣した「ストックホルムオリンピック」から記録映画として世界に配信されていますので庶民の生活スタイルを大きく変化されるきっかけになったかもしれません。

 完全な余談ですが『イリッシュ大戦車戦・改』に敵役として登場した「パットン将軍」は近代5種のアメリカ代表で5位に入賞していました。予選ではピストル種目でオリンピックレコードを記録。決勝では疑惑の判定が出て5位になってしまったといわれています。
 彼が反乱貴族達から受け入れられた大きな要素だったのかもしれませんね。

 「パナマ運河開通ニュース」なども商人なら見逃せない情報です。そして、「スエズ運河」を見た「渋沢栄一」達が「列強の力」を認識させられたように「パナマ運河」のニュースはライズの世界に凄まじい衝撃を与えたと思われます。

 さて、「ニュースフィルム」と同じように間をつなぐ用途で発展していった分野に「アニメ」があります。映画のアニメに「長編」とつくのは間をつなぐ「短編」と区別していた名残ともいわれています。『フィリックス』、『トムとジェリー』、『ミッキーマウス』はこの「短編アニメ」出身の生きの長い人気キャラクター達です。


 ……みごとにアメリカ出身ですね。史実では「マンガは時勢に合わない」として圧力をかけていたそうですが、異世界の日本では『のらくろ』をスクリーンデビューさせて対抗しようとしているかもしれませんね。(笑)

 今回もお付き合いいただいてありがとうございました。



マリア:そう言えば劇中で登場した『雨に唄えば』の映画版でも、映画俳優の主人公が舞台女優のヒロインに『パントマイム』と馬鹿にされるシーンがありましたね。いつもながら谷利さんの考察は見事です。
 「演劇文化あるなら、映画もすぐに広がるだろう」と簡単に考えていた作者は「谷利さん、ありがとうございます!」と羞恥に打ち震えながらお礼を言っていましたよ。


本日取り上げた作品

王立空軍物語 第1部『鋼翼の7人』編

小説家になろう版

カクヨム版

イリッシュ大戦車戦・改 ~王立空軍物語外伝~

小説家になろう版

カクヨム版

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA