燃えるような夕日のあかが、大川の水面みなもを染めている。
 その照り返しを浴びながら、池田いけだ真之介しんのすけは虚ろに一人、岸辺にじっと座り込んでいた。

 鮮やかな茜色――かつてはあれ程に彼の感性を刺激した豪奢ごうしゃ色彩いろも、今の真之介の心の空虚うつろを埋めてはくれない。

 夕空が、ではない。その目が何を見ても、彼の心には映らない。その耳が何を聴いても、彼の心には響かない。

 真之介は生きたままで死んでいた。
 しのつく雨と、紅蓮ぐれんの炎にいろどられたあの夜から……。

 燃えるような色――炎の色。
 視覚がもたらす連想が、真之介の心を再びあの夜へと回帰させる。


 〝彼女〟は劫火ごうかの中に立ち尽くしていた。

「来て下さったのですね! 私、もう死んでもいい……」
 感無量かんむりょう面持おももちで言うのを、馬鹿なことを言うなと叱りつけ、

「生きるんだ! 共に生きるんだ!」
 そう叫んだ。

(君も頷いてくれて、想いは一つだった筈。それなのに……)

 やっと我が手につかむことが出来たと思ったその刹那せつな、彼女ははかなく逝ってしまった。
 真之介の腕の中、襦袢じゅばんを己が血汐ちしおでなおも赤く染め……。

あや……」
 今は亡き愛しき女性ひとの名を、真之介はぽつりとつぶやいた。


「………………」
 我に返ってみると、とうに日は沈み、夜空に月が浮かんでいた。

 うるさい程の蝉時雨せみしぐれも、今は涼やかな虫の音色に変わっている。
 夏が、もうじきに終わろうとしていた……。

(……?)
 ふと、月明かりを浮雲うきぐもさえぎった。

 その闇の中で、真之介の目に映るかすかな光があった。

 半ばほうけた意識でも、そちらに目を向ければその光源の正体は察しがついた。

 あえかな光が規則的に明滅めいめつを繰り返している。あれは、蛍火ほたるびだ。

「……蛍? ……はぐれぼたるか……」
 真之介は淡々と呟く。

 なんらかの理由で羽化が遅れ、羽化した時にはもう季節にも、仲間からも取り残されてしまった蛍のことを、はぐれ蛍と言う。

「……まるで、私だな……」
 真之介は自嘲じちょうする。

 もはやおのが季節が過ぎ去っていることに気付かずに、いる筈もない伴侶はんりょを求めて光を灯し続ける哀れな虫が、自分の姿に重なって見えた。

 惨めなものだな……と思った。
 いるべき場所・・、あるべきから外れてしまったものは。

 あの時、彼女と共に死ぬことが出来ていれば良かったのかも知れない。
 共に生きられぬのなら、せめて……。

 衝撃は余りに大き過ぎて、目の前の現実を受け入れられなくて、流されるままに来てしまった。
 遅れて今からでもこの生命を絶てば、彼女のもとへと逝けるだろうか?

心中しんじゅう……だね。君はもういないけど……」
 代わりにせめて、彼女への想いを抱いて。

 〝忠〟が主君への誠を尽くすことなら、それを裏返した〝心中〟は相手への誠を尽くすことなのだと言う。ならば……。

(君のいない生にも、君のいない世界にも、私にはもう何の意味も無いのだから……)

 奈落ならくへと落ち込んで行きつつある真之介の暗い想念そうねんの高まりに応じて、彼の周囲の闇もにわかに濃度を増してこごり出していた……。

   ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

千歳ちとせ彼方かなた……か」 神々の末席につらなる者にして初めて立つことが叶う場所にて、鴛 鴦 命えんおうのみこと――万葉まようはそう呟いた。

 〝時の回廊かいろう〟――転生の定めにあった自身の魂・・・・の軌跡を俯瞰ふかんしてみると、さながらそんなイメージが浮かぶ。

 吹き抜けのある螺旋らせん階段を、最上階から見下みおろすかの様に。時に〝みお〟であり、〝あや〟でもあった、自分・・の生の一つ一つ。
 〝ほたる〟であった頃の自分・・に行き着く、千年にも及ぶ輪廻りんねみちが見える。

 過去へと、時間ときを戻る為に来て。こうして振り返ってみると、流石に感慨が胸をよぎった。

 これだけの長いときて、永の苦難の果てにようやく手にすることが出来た〝現在いま〟だった。だからこそ、

たけるさん……)

 彼女もまた、行かねばならなかった。
 共に現在を共有すべき、己が半身の傍らへ。

 万葉は神力を操る意識を集中し、〝のいる時〟を探し――見当はついてはいるのだが、よりそれを特定する為に――難なくそれを見つけ出す。
 早速〝その時〟へと向かいかけてふと、万葉の意識の端に何か・・が呼びかけた。

「あれは――?」
 〝綾〟の時代、より正確には彼女の人生が幕を閉じた直後の時か?

 おぼろげな光、しかし何故だかそこへ行かねばならないと強く感じて。
 万葉は躊躇ためらうことなくその時、その場所へと、時を辿たどって行った……。

   ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

「ソウダ、モットダ。全テヲ呪エ! 全テヲ憎メ!」
 闇の気配をぎ付けて、たちまち群がり寄ってくる魍魎もうりょうどもが口々にささやきかけて来る……。

 みるみると肥大化して行くくらい意識を、真之介はどこか遠く、他人事ひとごとの様に見ていた。

 自らの躯が闇に乗っ取られつつあると言うことなのだが、まるで無感覚に、それもいいかと思える自分がいた。

 今から死のうもなにも、自分はもう〝死んで〟いるのだった……。

(こんな抜けがらが欲しいと言うのなら、好きにするがいいさ……)
 もう楽になりたいと、むしろ自ら進んで魂消たまぎえさせようとさえしたその刹那――

(いけません!)
 りんとした女声が響いた。

 この声!?

「綾!」
 薄れかけていた意識が瞬時に力を甦らせ、真之介は再び〝己〟を取り戻す。

『闇のともがらどもよ、く立ち去れ!』
 綾の言葉と共に、清冽せいれつな〝力〟の奔流ほんりゅうが凝った闇を吹き散らした……。

「綾……君なのか?」
 信じられないと言う面持おももちで、真之介は眼前に立つ〝彼女〟の姿を見上げる。

『真之介さま……』
 万感をたたえた表情で、頷く綾。

 真之介は震える手を彼女へと伸ばす。だが、彼女の手に触れようとした指先は、空しく宙を掴んだ。

「綾……君は……?」
 綾は哀しげに首を振ってみせる。

 よく見れば、彼女の姿は月明かりをさながら後光のように透かして、淡い輝きを放っていた。

『真之介さま、〝今の私〟は、私であって私ではない・・・・・・・・・・のです……』
「綾……」

 謎かけのような言葉であったけれど、彼女の言う通りなのだと何故だか自然と信じられた。
 大事なのは今、現にこうして〝彼女〟がここに居てくれているということ、それだけ。

『真之介さま、私はあなたに謝らねばなりません……』
「綾? 何を?」

また・・あなたを残して逝かねばならなかったこと……。一人残されたあなたに、これ程の苦哀くあいを背負わせて……』

(!!)
 綾の〝内〟で二人のやりとりを見守っていた万葉もまた、綾の言葉に息を呑んだ。

 そう、今やっと気付かされた。千年、〝自分〟は〝彼〟を愛し続けて来た。
 〝彼〟を愛して死んで行った。

 苦痛はもちろんだった。
 ようやくまた巡り会えた喜びも束の間に、想いだけを遺して再び逝か別れねばならない無念もあった。

 それでも、ある意味では幸せだった。
 いつの時代ときでも、死に場所は愛する〝彼〟の腕の中。
 〝彼〟の為に生き、〝彼〟を守って死んで行くことができたのだから……。

 でも、〝彼〟は?

 〝自分〟はそれで良かったのだとしても、いつも一人置いて行かれるしかなかった、〝彼〟の想いはどうだったのだろう?

「抱いて、武」
 輪廻の終わり、人としての最後の死の際に〝彼〟に願った。

 後ろから、そっと抱きしめて。私が、一人ぼっちの夜を思い出して泣かないようにと。

 孤独に耐えてきたのは、〝自分〟だけだと思っていた。

 けれども〝自分〟は、あるいはそれ以上に深く、長い孤独を〝彼〟に強いてきたのではなかったか?

 万葉は、何故自分がここ・・へと呼ばれたのかを理解する。
 自分を呼んでいたのは、あの時に残して来た〝綾〟の想いの欠片だったのだ……。

「綾、何も……君が謝らねばいけないことなど、何もないよ……」
『真之介さま……』

「……けれど、やはり私を一緒に連れて行くことは……叶わないんだな……」
 綾はさびしげに頷いた。

『でも、〝希望〟は残されてはいるのですよ……』

「希望?」
 綾はゆっくりと頷いた。

『真之介さまと私は、繰り返す運命の輪の中にいるのですもの。今生では終わっても、遠く……時の接する先でまた巡り会える…………。きっと、心から強くそう願うなら……』
「願うよ、綾。君にまた巡り会えると言うのなら」

 ためらいなく真之介は即答する。それだけでもう、彼には福音だった。

『真之介さま……』
 一瞬笑顔を浮かべ、しかし綾は目をらすようにうつむいた。

「綾?」
『でもね、真之介さま。もし生まれ変わったならその〝あなた〟は、〝私〟のことを忘れてしまうのですよ? そう、定められて・・・・・いるのですから……』

「…………」
『どうせ忘れてしまうのなら、いっそ全てを忘れ、あなたをしばるこの運命の輪から断ち切られて生きることも出来るのですよ?』

(〝私〟に囚われて、その生を狂わされることのない生き方も……)

 真之介はただ黙って首を振った。

「〝君〟に、縛られただなんて思ったことは一度もないよ。それを言うのなら、むしろ私の方だ。生まれ変わって、また君と巡り会えると言うのなら。次こそは、次こそは君を護りたい。誓うよ、必ず〝君〟を探し出してみせるから。〝私〟を、待っていてくれるかい?」

『……はい』

 その誓いが、来世ではまだ果たされることはないと、既に〝彼女〟は知っている。それでも決して変わることのない〝彼〟の心が嬉しかった。

『真之介さま。目を閉じて下さいませ』
 言われるままに、真之介は目を閉じた。彼女の気配が近付いて――

ぬしさんに……れんした……』
 廓言葉くるわことばでのささやきが聞こえ、額に柔らかな唇の感触を感じた。

「綾……」

 そして再び目を開けたとき、彼女はもう、去っていた。
 ほのかに漂う甘やかな残り香だけが、彼女が確かにそこにいたことを証していた……。

   ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

(ありがとう。これで思い残すことはなくなりました)
 再び意識を眠らせようとする〝綾〟が、〝万葉〟に感謝の言葉を述べる。

 最初平安の幼き日の出会いの時に倣い、真之介の内なる闇に・・・・・封印を施した。
 これでもう、彼が生ある限り闇の手先に惑わされ、また闇の血に呑まれることはない筈だった……。

(私もよ。おかげで大切なことを教えて貰ったわ)
 万葉も綾にそう返す。

 〝彼〟が自分を置いてまでも旅立たずにはいられなかった想い――人の一生はそれぞれのもの。例え転生の定めの中にあろうとも、〝その人〟の人生は一度限りのものなのだから……。

 それを、本当の意味で実感できたと思う。

 どうして、自分を置いて一人で行ってしまったのかと、正直少しは怒り、また恨みに近い様な想いも抱いてしまった。
 でも、こうしてここに来て、そんな想い未練は〝自分〟の中にも在るものなのだと言うことに気が付くことが出来た。

 と共にあると言うことは、そうして一つ一つ彼女・・自身が真の意味での〝人間ひと〟と言うものに近付いて行くと言うことでもあるのだ。

(だから、私達は常に寄り添っていないといけないのよ、武さん)

 また一つ〝想い〟を重ねて、万葉は武の居る時へと向かって行った。

   ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

「惚れんした、か…………。私も同じだよ、綾」

 遊女は客に惚れさせるのが仕事であるから。決して自分が相手に惚れてはならない。
 その言える筈のない言葉・・・・・・・・・を、綾は使ったのだ。

 彼女の深い想いのたけが、心に染みた。廓言葉で言ったのは、それが自分の想いを最も深く伝える方法だったから……。

 また会える。彼女はそう言っていた。
 ただ、その時には彼女のことは忘れてしまうのだとも。

 絵を描きたいと、痛切にそう思った。

 彼女の姿は自分の脳裏に焼き付いているから。
 今度こそ、彼女の絵を描きたいと思った。

 もし本当に彼女のことを忘れてしまうのならば、生まれ変わったその先で、その絵を見てもう一度思い出せる様に……。

 自分には、生きて為すべきことがまだあった。

 川の水をんで、手硯てすずりすみりかけて。
 ふと、再びはぐれ蛍に目が行った。

 不思議だった。さっきまでなら哀れで滑稽にしか見えなかったそれが、
今は、無駄だと判っていても決してあきらめない、凛とした生き様を貫く姿に見えた。

(この胸の隙間を埋める術はないけれど、それでも綾、この命ある限り君のことを覚えていられるのならば、私は……精一杯、生きてみよう……)

 彼女への誠を真に貫くと言うのはきっと、そういうことだから……。

 真之介は手草子てぞうしを開いて、筆を走らせ始める。
 月が優しい光を注いで、その手元を照らす。

 はぐれ蛍が静かに、孤悲の痛みをいていた。