そこはさながら、時代ときの流れの只中から置き忘れられた、箱庭の様だった……。

 

庭に咲く梅花


 遅咲きの梅の花のが、庭一面に満ちている。
 ゆっくりと深く息を吸い込み、その清冽せいれつな香気で肺腑はいふを満たすと、患った胸の不快もほんの僅か、薄れたような気がした。

 新たな生命萌えいずる季節に、その男の生命の灯は尽きようとしていた。

 慶応四年、春三月――江戸、千駄ヶ谷。
 沖田おきた総司そうじは、死病を得た己が身をこの地に休めていた。

 縁側の柱に寄り掛かって、沖田は何をするでもなくただぼんやりと庭を眺めながら、うららかな春の陽射しを浴びていた。

 どこかで雀が鳴いている。風も無い暖かな午後。時間はただゆっくりと流れている。
 世の中の出来事も、まるで遠い別の世界のことであるかの様な気さえする……。

 無論、それは錯覚さっかくに過ぎない。
 大いなる時代のうねりは、今こうしている瞬間にも、大きく激しく動いていた。

 もはや自らの躯を動かすことも思う様にはならない彼を置き去りにして、歴史ときは無情に歩み去って行く。
 望みもしない舞台に勝手に上げて、素知らぬ顔して梯子はしごを外して……。

春霞はるがすみ つわものどもが 夢のあと……か…」
 誰に言うでもなしに、運命の変転ぶりを思った心情が呟きになって口を出た。

 彼が守ろうとしていた幕府は――徳川の家は、拍子抜けするほどあっさりと、いとも易々と敗亡してしまった。

 そのこと自体には(仕方がないさ)と、思う気持ちがないではない。
 正直なことを言えば、忠義だなんだの小難しい理屈には沖田自身はさしてこだわってはいないからだ。

 だが、それは即ち彼の大切な人達――近藤こんどう土方ひじかた賭けた夢・・・・の終わりをも意味していた。

 今生きている者だけではない。井上いのうえ山崎やまざき達、それに山南やまなみ藤堂とうどう、その夢に殉じて散って行った者達。
 永倉ながくら原田はらだ吉村よしむらら行方も知れない者達にしても同じことだ。

 この結末はあんまり過ぎる。

 それでも、どこまでも三人で共に行こうと決めていたのに。

 それすらも絶たれた今、彼に許されたのはただ虚ろな心を抱えたまま、ここで静かに朽ちて行くことだけのようだった……。
           

「本当ニソレデイイノカイ?」
                                                 

 唐突にそんな声が聴こえた。

 沖田はハッと顔を上げる。
 目の前にも、周囲を見回しても、人の姿はない。

 ふと庭の片隅に目をやると、そこに一匹の〝黒猫〟が佇んで彼のことを見つめていた。

「!?」

 目と目が合った瞬間、沖田は病み衰えた躯でかなう精一杯の速さで身構えた。
 未だなお死に絶えきってはいない、戦士の本能だ。

(こいつはっ!)

 京都での出来事で身をもって知った、実在する人外のモノ達。
 眼前の生き物もまた、まごうなきその邪悪な気を発していた。

「何用だ?」
 刀を手に、化生けしょうの姿に油断なく目を凝らしながら沖田は言った。   

「ナニ、別ニ大シタ用ガ有ルワケデハ無イノダガネ……」
 どこかに嘲弄ちょうろうを含んだ声で応じながら、その〝猫〟はゆっくりと沖田の方へと歩み寄る。

歩み寄る黒猫

「アノ、忌々シイ〝剣〟ヲ砕イテクレタト言ウ男ノコトヲ、見テミタカッタノダヨ……」

「っ!?」
 その一言が沖田の心をえぐり、忘れたがっていた痛恨の記憶を引きずり出した。

葛城かつらぎさん……」
 苦しげに呟く沖田。

 そんな彼のさまを化生は更にあざけった。
「ソウダ、全テハオ前ノオ陰ダヨ。礼ヲ言ウゾ」

「やめろっ! 言うなっ!」
 その一言一言が沖田の心を切り刻み、責めさいなむ。

 そうなのだ。心を守る為に押し殺していた思い――こうなったのも、全て自分のせいだと言う悔恨は彼の心を離れなかった。


「いいんだ。いいんだよ、総司そうじ

 己の過ちは葛城親友を死なせたのみならず、幕府の霊的守護の巫女をも死なせ――それが結局は、新撰組の命脈すらも絶ってしまった……。

 ことの全てを告げた彼を、そう言って近藤は一言も責めようとはしなかった。
 沖田にはそれが尚更辛かったのだ。

 そんな彼の心を見透かすかのように、化生は言った。
「無念ダロウ? 悔シイノダロウ? ソレナノニ、オ前ハコノママ黙ッテココデ朽チ果テテ行ケルノカ?」

 黒猫の口元がニタリと吊り上がる。
「モウ一度、我ラガ〝力〟を受ケ入レテミルガイイ。オ前ノ望ミハ叶ウダロウヨ。ドウダ?」

「…くっ、黙れ!」
 手にした刀を腰に引き付けて、抜刀――できなかった。
 躯は信じられない程に重く、鈍かった。

「フフフ……。オ前ノカラダの方ガ正直ナヨウダナ? 我ノ勧メヲ受ケ入レロト言ッテイルデハナイカ?」

「ぬうっ……!」
 額にびっしりと汗を浮かべて、沖田はそれでも意のままにならない躯を動かそうとし続ける。

「フッ、マアイイ。良ク考エテミルコトダ」
 言い捨てて、〝猫〟はパッと身をひるがえし去った。
 妖気が消え去るのと同時に、躯の重しも嘘のように楽になったが、沖田はそのままただ呆然と立ち尽くしているしかなかった。            

「どうしなすったね、先生? 猫に向かって刀構えて」
 硬直が解けたのは、ここの寮で彼の世話をしてくれている老婆に、そう声を掛けられてからだった。

「斬れないよ、婆さん……」
 ふりむいて、沖田は哀しげに呟いた……。
                                  

  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
                        

 目を開けてみると、そこにあった光景は・・・・・・・・・予想とは全然異なったものだった。

(ここは?)
 思わずそうひとりごちて、周囲の〝風景〟を見回す。

 どう見ても〝現代〟――自分が本来目指した時代の風景ではなかった。

(やれやれ、またまたやっちまったか……)
 たけるはいつものように苦笑した。

 神々の末席に登極した身とは言え、未だにその力の制御は思うに任せない。
 一年だけ時を戻るつもりで、どうやら大幅に戻り過ぎてしまったらしい。

 本来ならばそこにある筈の自分の肉体・・・・・が無く、魂だけの存在のままであることから、それはすぐに判った。

 問題は、どれくらいさかのぼってしまったか? なのだが、それもすぐに判った――彼の内に在る、前世の魂の内の一つが、
「〝俺〟の時代だ」と、意識の表層へと上って来たことで。

(悪ぃな。ここ・・に来たからには、ちょっとだけ確かめたいことがあるんだ。少しの間だけ、好きにやらせてもらうぜ)
 〝葛城かつらぎ信吾しんご〟はそう言った。
                               

  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆   
                                                   

(そろそろが来る頃合か……)
 あれから毎日の様に、決まってやって来る化生を、沖田は今日も待っていた。

 妖魅との対峙はその度ごとに精神も肉体も著しくすり減らし、放っておいても尽きかけた彼の生命を貪欲どんよくに吸い取っていた。

 それでも沖田がその苦行くぎょうを受け入れ続けていたのは、それを己に課しただと考えていたからだ。

 そして今日も、黒猫に憑依ひょういした化生が彼のもとへと姿を現した。
「流石ニモウ、限界ダロウ? イカナオ前トテ、コレ以上ハ躯ガ保タン筈ダ。サア、我ヲ受ケ入レルノダ!」

 奴の誘いは単純だった。
 再び闇の力を受け入れてこの病をいやし、再び剣客として生きると言う望みを叶えるがいい、と。

 沖田はふっと笑みを浮かべ、そして〝菊一文字きくいちもんじ〟を抜き払う。

 浮かべた笑みは、この期に及んでなお妖魅の声に惹かれる己が弱さへの自嘲。
 それでも彼は決めていた、二度と誘惑には屈しまいと。たとえ死すともだ。

「ククッ、ヤハリソウ来ルカ」
 さして意外と言う風もなしにわらう化生。禍禍まがまがしい闇の波動が膨れ上がる。

常人ツネビトニハ珍シイ強キ意志ノ者ユエ、充分ニソノココロ味ワワセテモラッタガナ……デハ、ソノ血肉モ我ニササゲルガイイ!」
 そう叫ぶや、闇の波動が触手を伸ばして沖田に襲いかかる。

 必死に体をさばき、愛刀を振るう沖田。
 だが、弱らされきった躯に実体無き人外のモノが相手では、そもそも勝負になる筈もない。

 化生は一撃で仕留めもせずに、まるでねずみのごとくに彼をいたぶった。
(これでいい…これでいいんだ……。こうやって苦しんで惨めに死ぬことでしか、私の過ちはゆるされない……)

 ゆっくりと目を閉じ、贖罪しょくざいの苦痛に身を委ねかけたその刹那せつな、沖田は懐かしい声を聴いた。
 もう聞けるはずのない・・・・・・・・声を。

(おいおい沖田、馬鹿なこと言ってんじゃねぇよ)

 この声は!

「葛城さん!?」
 驚きの声を上げた時、彼の躯を責め苛んでいた邪気が吹き飛ばされ、代わって傍らに懐かしい気配を感じた。

(ったく、泣く子も黙る壬生狼みぶろの一番隊組長ともあろうものが、何てザマでぇ……)
 伝法でんぽうな、それでいてどこか温かい、紛れもない葛城信吾の声だった。

「葛城さん、私は……」
 言いかけた沖田をさえぎって、信吾は叱咤しったの声をかける。

(おいこら沖田、おぇあんまり自惚うぬぼれんじゃねえよ。何でもかんでもお前の責任だなんてことが、あるわけねえだろうがよ!)

「…………」

(俺も新撰組の連中と同じ、何一つも恨むことなんかありゃしねえさ。俺達ぁ誰もが皆、譲れねえテメエの誇りや信念を賭けて、その為に抗った闘った。ただそれだけのことだろ? それでいいじゃねぇか)

「私を……赦してくれるんですか?」
 信じられないと言う声を出す沖田。

 信吾は苦笑して応え、それから真面目な声になって続けた。
(だからよ、赦す赦さねえの話じゃねえんだよ、もうそのことはよ。……ただな、お前は〝闘う〟って決めたんだろ? だったらそれは最後まで貫けよ。そっから逃げるってこたぁ、許せねえぜ?)

「葛城さん……」

(俺が本当に許せねぇのはな、そんな想いを喰いものにする奴らの方さ)

 ありゃあよ……。信吾は妖魅のことを示した。
(お前のその心の隙に付け込んで喰らい、あんなに強くなっちまったのよ。だったらあの野郎をここで仕留めるのが、お前の始末ってもんだろう?)

 そんな奴らにだけは、負けんじゃねえよ。
 信吾の叱咤にもうひらかれて、沖田は再び刀を持ち上げる。

「……そうですね、私はまた間違えかけていました…。過ちはここで断ち切らねば。今度こそは負けられない!」
 右青眼崩みぎせいがんくずしやや前のめり――天然てんねん理心流りしんりゅうの構えを取る沖田。心を静め、ただひと太刀たちに剣気を集中させる。

(そうだ、それでいい)
 信吾は満足げに頷くと、眼前の妖魅に向き直る。

『おい! ずいぶんと好き勝手にあいつ俺のダチもてあそんでくれたじゃねぇか? この落とし前はきっちり付けさしてもらうぜ!』
 圧倒的な霊格の差に、妖魅はビクッと身を震わせる。

『逃がしゃしねえよ!』
 既に周囲の空間には結界を張り巡らせていた。

 妖魅が最初から言霊ことだまも使って沖田を呪縛じゅばくしていたように、信吾も目には目を返してやったのだ。

「グァアォォッ!」
 破れかぶれになった妖魅が沖田へと突っ込んで行く。

『バン・ウン・タラク・キリク・アクッ…』
(今だ!)
 呼応して動く沖田の剣先へ、信吾は破魔の印を飛ばした。

 剣閃一貫!

「ギィヒャアアアァッ!」

 沖田の三段突きを受け、邪気の塊の妖魅は跡形も無く消え失せた……。  
                                  

  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
                                                

 妖魅が浄滅するのを見届けて、信吾はその場から立ち去った。

(すまねぇな、寄り道をさせてもらってよ)
 心残りを片付けて、意識を武に返して再びの〝眠り〟につきながら、信吾は一言そうびる。

(いや、いいさ)武もそう応じた。
 信吾の行為に文句はなかった。
 自分が再臨のみちを決意したのと同じ思いを責めるいわれなどない。

 いかな神と言えども、沖田の生命を救うことまではできないけれど。ただ、その心を、魂の尊厳を救うことは――その助力だけはできる。

 自分も信吾のように、大切な人々の心を救ってみせる!

 思いも新たに、武は本来目指す〝彼の時代〟へと下って行った……。
                                 

  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
                                              

「沖田先生?」
 いつものように、彼を呼びに来た老婆の声で、沖田は我に返った。

「今のは……」
 夢だったのだろうか? いや、そんな筈はない。あれは、確かに……。

「また今日も斬れんかったのかね?」
 〝黒猫〟のことだ。老婆には、彼がただ黒猫を斬ろうとしていたとしか見えていないのだった。

「いや、〝斬った〟さ……」
 沖田は吹っ切れた表情で呟いた。

 斬ったのは、己の心の陰。
 信吾は死してなお彼の親友であり続けてくれたのだ。

「最後まで闘え、か……。厳しいなあ、葛城さん。土方さんより、ずっとずっと厳しいや……」
 言いながら、沖田は自然と笑っていた。
 ほとんど忘れかけていた、誰からも好かれたほがらかな笑顔で。

 先の一刀が、剣士としての最後の闘い。これからは病と闘う、一人の人間としての闘いが始まる。
 残された時間はそう多くはないけれど、沖田にもう迷いは無かった。

「私は生きますよ、葛城さん。最期の最期まで、闘ってみせます」
 沖田は晴れ晴れとした気持ちで空を仰ぎ見る。

 まるで、今の彼の心を映す鏡であるかの様に――
 澄み渡った春の空は、どこまでも蒼かった。

仰ぎ見る春空