雪女を人間にする方法はな、
 本当に愛情だかを込めてその雪女を抱きしめて、
 溶かしちまうコトなんだとさ――


天が泣いていた


 天が泣いていた。
 若神の死を悼むかのように、暁の空から雪が静かに舞い落ちる。
 曙光しょこうが昨夜の悪夢の爪痕をまざまざと映し出す愛宕山のふもと
 沙夜さやは舞い落ちる雪の下に立ち尽くしたまま、眼前にそびえ立つ愛宕山を見上げていた。

(私はまだ夢の中にいるのだろうか?)

 どこか麻痺した頭がふと、そんなことを考える。
 雪まで降るほどの夜明けの空気のただ中にいる筈なのに、全く寒さを感じない。吐く息の白さから、気温は本当に低いのだということは判るのだが……奇妙に現実感が無い。

 いや、やはりではない。これはうつつのことなのだ。
 その証拠に彼女のかたわらでは、仲間達が皆そろって途方に暮れている。
 ごめんなさい、ごめんなさいと、ひたすらに繰り返しながらしゃがみこんで泣きじゃくっている聡子さとこ
 そんな彼女をいたわるように両脇で肩を抱いてやりながら、一緒に肩を震わせて嗚咽おえつする万葉まようしおり――異口同音に愛しいひとの名を呼んでいる。
 嘆き悲しむ三人の姿に、尚更に沈痛な表情でうつむきながら寄り添う汰一たいち絵理えり悠利ゆうり響子きょうこ
 その場にいる誰もが皆、重い現実に打ちのめされていた。

 破滅の――この世に具現化した太祖の虎口ここうをからくも逃れて、こうして彼女達は生きている。
 この世界にも、二度ともう朝が来ることさえなくなってしまう、昨夜は本当にその瀬戸際だったのだ……。
 それを免れたのは、全て〝彼〟のおかげ。彼が我が身とひきかえに、太祖を再び冥府の底へと叩き落として去ったから。
 彼の生命にあがなわれ、自分達は今こうして生きている……。
 生あることの安堵は、それ以上に強く深い感情――後悔や疑問や絶望、それらが渾然一体こんぜんいったいとなった衝撃の度合いを更に強めて、誰の上にも重くのしかかっていた。

(ああ、そうか…………だからなのね……)

 沙夜はふと、どうして自分の感覚が麻痺しているのか、その理由に気が付いた。
 それはこの喪失が、彼女の心をも殺して行ったから。
 うつつの寒さなど、感じる筈もないのだ。己の内はそれ以上に暗く、冷たく、凍り付いているのだから……。
 それは、〝彼女〟にとっては忘れていた、どこか身近な感覚だった。
 そう、ほんの百年ほどの昔には……。


◆ ◆ ◆ ◆ ◆


観樹みき。今のこの世の中にはな、人にあらざるモノであるお前の居場所など、どこにもないのだよ」

 切人きりひとの口からそう断言された時は、もちろん衝撃を受けはした。
 けれどもそれが醒めて、突き付けられた言葉が心の内に染み入った時には、どこか諦観ていかんの混ざった奇妙な安堵感も覚えていた。

土蜘蛛われらと人とは、決して相容あいいれぬ」

(ああ、そうなんか……。やっぱり、なんやな……)

 自分は〝人間〟ではない。
 はっきりと突き付けられた、自分では認められなかった――認めたくなかった現実に、微かな未練もすっぱり断ち切られる。
 残された唯一ゆいいつの道は、ただ黙って受け入れることだけ。
 何故だか涙は出なかった。
 絶望も極まれば、嘆くということを忘れてしまうものなのかも知れない。
 それが、生きる為に心を殺すということを覚えた、多分その最初だったのだろう。
 生きる為に……。
 戦う技を学び、土蜘蛛つちぐもの衆としての異能をる術を鍛えてゆく。
 その力で人間達の迫害から身を守り、そしてまた時には逆に獲物として狩る。
 文字通りに人の生き血をすする、〝化物〟として生きていた。

(仕方ないんや……)

 そうするしかないから……。

うち・・はあんたらとは違うんや。こうしてしか生きられへん、人間ひとの皮を被ったものの子なんや……)

 人間ひとというものはどうしてか、自分達の中に紛れ込んだ〝異物〟を嗅ぎ分ける嗅覚だけは優れているものらしい。
 人のことわりが支配する世の中には、彼女ら人ならざる者達の生きられる場所はどこにもなかった……。

(切人様の言ったことは嘘やない。うちらが生きていく為には、今のこんな世の中はひっくり返さなあかんのや……)

 土蜘蛛衆の一人として生を繋いで行く中で、観樹は日々その思いを強くして行った。

 今のこの世界――その全てがうとましかった。嫌いだった。
 自分を捨てた世界を。自分を拒絶する世界を……。
 でも、本当に一等嫌いだったのは、己自身のこと。

(うちは……なんで生きとるんやろな……)

 まるで獣の様に……。いや、そう成り下がりきれるのだったらむしろ、その方がある意味では幸せなのかもしれない。
 獲物として狩った人間が、断末魔の恐怖と共に見せる自分への嫌悪の眼が、その度ごとに不可視の刃となって心を切り刻む。
 そして自身の中に在る、それを舌なめずりしながら味わっている忌まわしき闇のさが
 目を背けていたいのに、そうすることは決して出来ない。
 小さな少女の心で背負うには、余りにも重いごう
 だから心を凍らせた。
 何を見ても何も感じないように。そうすれば、これ以上傷付くことはない。闇の化物にはなりきれない――未だに人であった頃の心を未練たらしく捨てきれない、弱い自分を封じておくために。

(まるで、雪女みたいやな……)

 観樹はさびしく自嘲じちょうする。
 さながら、人の温もりに焦がれながらもそれに触れることは決して叶わぬ妖怪の様に……。
 もしその温もり――そんなものが本当にあるのならば……だけど――に触れたなら、自分はもう生きられなくなってしまうから。
 だから、何もいらない。何も欲しがらない。
 一人でも、寂しくなんかない……。

「お前だって、人間じゃねぇかよ……観樹」

「お前だって、人間じゃねぇかよ……観樹」

 そんな自分に何のためらいも見せずに近寄って、信吾あいつは平気で触れてきた。そして、そう言ってくれた……。

「お前が自分で皆とは違う・・・・・なんて思ってるのはよ……例えば飛脚が普通の人間よりかはちょっとばかり速く駈けることが出来るって言うのと、同じ様なもんに過ぎねぇさ」

 耳を疑った。何を言われているのかがすぐには理解できなくて、とても信じられなかった。

「人間……やの? うちも、皆と同じ……」

 衝撃に打たれたまま、その言葉を噛み締めるように繰り返す。
 こんな、実の親からさえも捨てられた忌まわしい血を引く自分が?

(どうして、信吾お前は……)

 自分のことを恐がらないのだろう? 人の生き血をすすると言う、まさに悪魔の性さえも目の当たりにしてさえいるというのに、それでもなお。

 そっと頬に触れた信吾の手――無骨な大きな手。でも、とても優しい手。

「だってよ……お前、泣いていたじゃねぇか」

 何の打算も、ためらいもない、彼の思いが伝わってくる。本当は何より強く焦がれていた、人の優しさが、その温もりが……。

「泣いてへんよ……」

 精一杯の強がりを口にしたけれど、信吾はただ、そうかいと苦笑気味に頷いて受け、そして続けた。

「俺のこの手……な。刀を振るって、今まで沢山の人を斬ってきた血に汚れた手だけどよ……」

 お前はこの手が、そんな俺のことが……恐ぇかい?
 信吾の問い掛けにふるふると首を振ると、

「つまりはよ、そういうことなのさ……」

 な? と、屈託くったく無く笑いかけてくる。

「……信吾…お前の手ぇ……暖かいな……」

 その温もりを確かめるように、その手にそっと自分の手を添える。

 固く堅く作り上げていた、凍てついた心が融けてゆく……。
 あかんて! それを受け入れてしもうたら……。
 もう元には戻れない。もはや土蜘蛛の衆としても生きてはいけなくなってしまうだろうとも判っていた。

(だけど……ああ、だけど……この手は、この温もりは……)

 なんという、甘美な痛み。
 たとえ己が身が消え失せてしまおうと、悔いはないと思えた。
 それが、それこそが、圧し殺してきた心の奥底でずっと求め続けて来たものだったのだから。
 それを教えてくれた、与えてくれた彼を、信吾しんごを救う為に切人に挑み、力及ばずたおれながらも最期の力を振り絞って、彼を縛る切人のしゅを断ち切った……。


 そして、虫の息で床に横たわる身体が逞しい腕に抱き上げられた。

「観樹……おい、観樹!」

 そう呼びかけてくる遠い声・・・に、観樹は信吾の勝利を知った。

「信吾……無事やったんやな……」

 もうほとんど何も判らなくなりかけていたけれど、抱きかかえられた腕から伝わってくる彼の体温ぬくもりだけは感じ取れた。

「観樹、すまねぇ……俺はお前を守るって言ったのに……。俺ぁ…結局、お前に何にもしてやれなかった……」

 信吾の目からこぼれた一筋の涙が、観樹の頬にぽたりと落ちる。その雫もやはり温かかった……。
 観樹にはもはや気付くことも出来なかったが、信吾自身もまた切人との戦いで致命傷を受けていた。だが、そんな苦痛など一顧だにせずに信吾はただひたすらに、死にゆくこの幸薄い娘のことだけを気にかけていた。

(ほんとにおかしな奴やなぁ……)

 遠のき始めている意識の中で、観樹は笑いたいような気分になった。
 うちがもう泣かなくてもいい様に……と、言ってくれたけど、律儀にも代わりに自分が涙を流してくれている。

(でもな、信吾。この涙・・・は……違うんよ…)

 涙は、嬉しい時にも出るのだと、そんなことも知らなかった。
 大切なものの為に、己の命すら賭すのが人間だと言うのなら――

(うちも、人間になれたんやな…。信吾、お前の言う通りやったわ……)

 その思いをどうにか表情にしようとしたけれど、上手く行ったかどうかは判らなかった。だから、その分も懸命に言葉にして伝えようと、最後の力を振り絞る。

「何言うてるん……お前はもう、いろんなものをうちにくれたがな……。ありがとなぁ、信吾……。お前に会えたから、うちは…こんな世の中も、そんなに悪いもんやないて……そう思えたもの……」

 もう自分が死ぬのが判る。身体が雪の様に冷たくなって行く。その中で、彼の腕から伝わる温もりだけは感じ続けていた。

(知らんかったわ……。雪はただ冷たいだけのもんやなくて、こんなにも綺麗なもんやったんやね……)

 ただただ安らかな想いで、観樹は静かに降る雪を見上げていた。

 温かかった。満たされていた。
 もう、何もいらなかった。

(あぁ、信吾……お前の…手ぇ……本当に……………)

 あったかいなぁ……。


 観樹の身体に触れた雪が、もはや融けることのないままその身を静かに埋めて行く。冷たい大地と雪の衣を柩に眠る観樹の魂は、どこまでも優しい温もりに包まれていた……。


◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 降りしきる雪が、世界を少しずつ埋めて行く。山肌にくっきりと刻まれた、昨夜の戦いの痕跡をまるで覆い隠すかの様に……。

(これは、武さんあなたの〝死〟に対する手向けの花だとでも言うの?)

 もしそうだとするのなら……そんなことで終わりにされてはたまらないと思った。
 このままでいい筈がない。
 あなたは私に命をくれた――今生いま前世むかしも、いつの時代ときでも。〝私〟の命は、〝あなた〟によって与えられて来た。

「約束するぜ……お前を、守ってやるよ。……お前がもう、泣かなくてもいい様に」

 幕末あの時には果たされることの無かった約束を、彼は覚えていてくれた。
 私が彼の伴侶として選ばれることはなかったけれど、彼はこの世の守護者として、こんな私が普通に生きて行けるような世界を創ることで、その約束を果たそうとしてくれた……。
 そのあなたが今、一人暗く冷たい冥府場所にいるのなら、私はどんなことをしようともあなたを助けたい。
 その為に私の命が必要だと言うのなら、喜んで差し出そう。

(あなたにもらった命ですもの……)

 だから、自分は泣かない。彼との約束は、未だに有効なのだから……。
 嘆いている暇があるのなら、彼の為に出来ること、彼の為になすべきことは幾らでもある筈だ。

(私はあなたの為だけに生きるわ。あなたが再び還って来る、その日まで)

 天を見上げて一人、己が胸の内に誓いを立てる。
 これから自分が歩まんとするのは、厳しく暗い修羅の道。
 それには必要ないものは、全てこの地に埋めて行こう。未練も、涙も、彼からもらった、あたたかいものもみな全て……。
 目尻に落ちた雪が融けて、雫となって頬を落ちて行く。

(誓うわ。全部ここに捨てて行くから、もう二度と振り返らないから……。だからお願い、今だけは……)

 空を見上げたままの沙夜の頬を、一筋の涙が伝う。
 雪が沈々しんしんと降っていた。


 雪が沈々しんしんと降っていた。