「君、肩を貸してくれ」

 アルフォンソは苦痛に顔を歪めながらゆっくり立ち上がる。

「君はすぐに治療を受たまえ」

「しかし、小官は……!」

「命令だよ」

 火傷を負った士官に告げる、穏やかな笑顔が痛々しかった。「一体何を……?」と問うヴェロニカに、「決まっているだろ」とアルフォンソ。

「僕が消火活動の指揮を執る」

「無理よ! 私が……!」

身を乗り出すヴェロニカに、彼は頭を振る。

「君がここを離れては、パットンに付け入る隙を与える事になる。大丈夫、君なら出来る」

 アルフォンソがヴェロニカの頬を撫でる。

『じゃあ、行ってくるから、いい子にしてるんだぞ』

『お土産楽しみにしててね』

彼の仕草が、最後に見た両親と被って見えた時、最後に聞いた両親の言葉がフィードバックする。
直感的に、自分はまた全てを失うと確信し、反射的にアルフォンソの袖を掴む。だがアルフォンソは、明らかに苦痛を押し殺した笑顔で「大丈夫だから」と彼女の手を袖から外した。

「何故そこまでするの!? 貴方はあの馬鹿に2人で組み上げた作戦を台無しにされたのよ!? それで、次は命まで投げ出すつもり!?」

「……部下の掌握はカスト少佐の仕事。そしてカスト少佐は僕の指揮下にある。責任は僕にある」

 賢者の弱点は、愚者を理解できない事である。それは経験によって補う事が出来るが、ヴェロニカは愚者に嫌悪感を持ちすぎ、階級で人を差別しないアルフォンソも、能力では差別した。
 2人とも愚者への隔意から、心の何処かで彼らへの理解を怠っていたのだ。ならば、今そのツケを払わなければならない。

「貴方は悔しくないの!? 何も感じないの!?」

投げかけた言葉は、問いかけではなく懇願だった。また1人になる。自分を置いて皆行ってしまう。その恐怖だけが思考を支配した。

「悔しく無い訳……無いだろ!」

絞り出すように吐き出したアルフォンソの声は、淡々としていたが、怒りに歪んでいた。

「毎年レナートの誕生日には必ず家に居た父上が、僕の誕生日には下らない理由で出かけてゆく。『あの子はへらへら笑って気持ちが悪い』と噂する使用人達。レナートに言われて僕と仲直りに来る奴らは、皆同じ顔をする。後ろめたさを張り付いた笑顔で隠して『誤解があったようだけど、俺達友達だから』だと? 士官学校に入って、やっと縁が切れたと思ったら、僕が司令官になったとたんに手紙を寄こしてきたよ。全部出世コースから外れた連中で、そうでない者は音沙汰なしだ。人を馬鹿にするのもいい加減にしろ!」

 ヴェロニカは息を飲んだ。彼はただの人たらしではないとは思っていた。周囲に便利に使われている事に何も感じないとは思えなかった。
 だが、これ程の激情を貯め込んでいるとは気付かなかった。
 アルフォンソ・アッパティーニは「怒らない男」などではない。あのスキピオ・アフリカヌスの様に、自分に言われなき悪意を向ける者達へ憤り、ずっと笑顔で戦ってきたのだ。自らの「怒り」と。

 静まり返った司令室で、彼はすっと息を吐いて、いつもの笑みを浮かべた。

「でも、そんなことは”どうでも良い事”なんだ。僕が怒らないのも、人の分まで仕事をするのも、そんな自分に『お前は出来る』と言ってくれた祖父と弟や『お前は面白い』と言ってチャンスをくれたファビオ先輩、それを認めてくれた大公陛下や飯村閣下、力になってくれた人たちに、それが正しかったと胸を張って言いたいからだ。『ほら、僕の言ったとおりだろ』って、自慢げに笑う弟の誇らしげな顔が見たいんだ」

 これだけの想いを貯めこんでいたアルフォンソである。自分が虐げられる原因となったレナートに、何も思わない訳がない。だが、彼はそれを「どうでも良い事」と言い切る。
 それだけ大きいのだ。苦境の時味方でいてくれた事、共に道を歩む「兄弟」でいてくれたことが。

「だからここで投げ出すわけにはいかない。ヴェロニカ・フォン・タンネンベルク。君は何のために軍人をやっている? 『馬鹿』への意趣返しか? 僕が選んだ相棒はそんなちんけな人間では無い筈だ。今大勢の味方を救えるのは君だけだ。君は今、意趣返しじゃなく、君自身の為に戦うべきだ」

 アルフォンソは「必ず戻る」と従兵に支えられて司令室を出てゆく。




『お前が感じている怒りは何のためのものか。それを考えろ』

『自分の心を見つめなさい。そうすれば貴方はきっと幸せになれる』

 アルフォンソの背中を見つめながら、両親に引き継いで育ててくれた老夫婦が、今際の際に掛けてくれた言葉を思い出す。

(そう言えば、あの時も私は泣いていた)

 そう思った時、何かがすとんと落ちた。

(そうか。私が怒っていたのは『馬鹿』にでは無かった。両親を失って震えているしか出来なった自分の弱さに怒っていたんだ)

 ならやる事は1つではないか。震える事を止め、泣きながら待つことを止め、大切なものを守る為に最善を尽くせば良い。
 ヴェロニカはすっと息を吸うと、無線機の状況を調べている通信兵に問いかける。

「通信機は無事?」

「破片にやられて3分の1は直ぐには駄目ですが、残りはまだいけます!」

「すぐ、空軍司令部へ繋いで頂戴。〔ペトルス〕をこちらに回してもらう。残りの者は前線の師団司令部にこちらが無事である事、無理な追撃は控えて現状を維持するよう伝えなさい。繋がらない場所には伝令を!」

 移動防空指揮所搭載型飛空艇〔ペトルス〕はレーダーによる航空機の管制・誘導を目的とした後に搭乗する早期警戒機の原型である。
 魔法で浮遊する船舶である飛空艇は航空機の攻撃に無防備な事から、もっぱら輸送任務に投入され、温存が図られていたが、大公派はこの禁を破って移動式防空指揮所として活用していた。
 現在は護衛戦闘機を引き連れて帝国派戦闘機の防空網を調査し、穴を見つけたらそこへ攻撃機を投入する手はずだったが、今は立て直しの為の防御こそ最大の懸案だ。