●ハンニバル
1.ハンニバル・バルカ。カルタゴの将軍。第二次ポエニ戦争で連戦連勝し、「ローマ最大の敵」と呼ばれる。
2.アメリカ合衆国の将軍ジョージ・パットンの渾名。
●スキピオ
1.プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アフリカヌス・マイヨル。共和制ローマの将軍・政治家。ザマの戦いでハンニバルを破った。
2.クロア公国の将軍アルフォンソ・アッパティーニ・アフリカヌスの渾名。
(降臨暦982年刊行・中学人名辞典より抜粋)




 歴史の転換点と言うのは、意外に間抜けな偶然から構成されている事が多い。 日本陸軍の強兵達が金科玉条のごとく崇拝する織田信長の迂回奇襲戦術も、実は敵方の今川義元が「うっかり」別動隊を本隊と誤認し、「うっかり」奇襲を受けたと言う説が浮上している。更に不幸な事に、それを正してくれる筈の名軍師は既に死去していた。
 勝利者の信長も最期は「うっかり」野心を持った右腕に無防備を晒し、謀反を起こされて自害した。その上リスク分散を行って然るべき嫡男まで「うっかり」同じように無防備な状態で近場に配置した。彼の「うっかり」が織田家が天下を治める可能性を絶つことになる。

 アルフォンソ・アッパティーニが歴史の表舞台に顔を出すのも、そんな笑い話にもならない下らない事件がきっかけだった。
 休戦明けから約1ヶ月の10月4日、泥沼の地獄で日常を過ごしている大公派の軍人たちに、せめてもの収穫祭祝いと新鮮な卵料理が振舞われた。この日の為に認可を受けて生食が許される、生産管理を徹底した生卵が運び込まれた。
 ライズの現地兵達はウシクジラの照り焼きに卵を塗り、日本人義勇兵は久しぶりの米に醤油と卵を垂らし、イタリア人義勇兵は半熟のカルボナーラを、ドイツ人義勇兵はジャガイモ入りのオムレツを楽しんだ。英国人義勇兵のコックは新鮮な卵をハードボイルドなスコッチエッグに調理し、「わざわざ新鮮な卵でやらなくても」と外国兵を苦笑させたが、彼らは彼らでお祭りと故郷の味を堪能していた。有志による演劇が披露され、この世界共通の楽しみであるトウモロコシ酒も1杯だけ支給された。兵士たちは熱気の中でひとしきり語らった後、また明日から始まる地獄に備えて眠りについた。

 事件は翌日起こった。最前線であるイリッシュ平原の防衛を担当する第5軍のフィリッポ・モンターレ中将以下上級幹部の殆どが、突然の腹痛を訴えたのである。
 後に分かった事だが、食材を買い付ける事務方が、袖の下と引き換えに生食の基準を満たしていない加熱用の卵を仕入れていたのである。これを聞いた前線の兵達は一様に青ざめ、英国義勇兵だけは胸を撫で下ろしたと言う。業者はバッシングを受けた上、軍法会議に掛けられた収賄犯は銃殺刑に処せられたが、馬鹿1人を撃ち殺したところで、病床の軍人たちが起き上がる筈もない。
 魔法による治療も検討されたが、患部が明確な外傷と異なり、ウイルスや細菌は検査を行わないまま闇雲に治療を強行すれば魔力耐性菌を生み出す恐れがあり、これを国が強行すれば国際的な信用を失う。50年前に猛威を振るった耐性菌によるパンデミックのトラウマは相当に根深く、この手の治療は石橋をたたき壊す程の慎重さで行われる。医者も総司令部も早期の戦列復帰、ましてや計画中の反攻作戦の指揮は不可能と結論を下した。

 総司令部及び大公カタリーナの側近たちは後任の選任を迫られ大騒ぎとなった。 同盟国ドイツから将官を呼び寄せると言う案も出たが、ライズ人の争いが地球列強の代理戦争となる事を防止するシーグ条約によって、義勇兵の数は厳しく制限されており、その場の都合で入れ替える事などもっての外である。後任は内部で先任するしかなかった。
 前線では現場指揮官達がルーチンで防衛戦闘を行っている為運用に柔軟性を欠き、穴の開いたワイン樽の様に戦力の喪失は増加している。このままでは反攻どころか、衰弱死である。
 紛糾する御前会議で、1人の文官が手を挙げた。

「大公陛下、軍司令に推薦したいものがおります」

 文官の名はファビオ・ロッソ伯爵。ロッソ家は代々続く官僚の家柄だが、ファビオは次男であり、本来なら軍人になっている筈だった。ところが帝国派(と言うよりそれに便乗した反貴族主義者)のテロルで兄を失い、意気消沈した当主は領地に引きこもってしまった。彼は新米少尉として赴任したばかりの任地から呼び出されて家を継いだ苦労人である。
 一方の大公カタリーナは若干18歳の少女だが、国民貴族を問わず絶大な人気を誇る。
 即位当時は、彼女が市井で暮らしていた事から「何処の馬の骨とも知れない」と馬鹿にする声もあったが、開戦に先立って義勇軍総司令の英国空軍大将ヒュー・ダウディングが「陛下に盾となって頂くため、居城の地下に防空指揮所を建設したい」と直談判してきたとき「それで都市に落ちる爆弾が1発でも減るなら望むところ」と涼し気に応えた逸話が広まると、陰口の類は萎んでいった。
 帝国派の指導者たちも、賢者マルキオの血統を継ぐ大公家への忠誠は変わらず、「大公陛下を惑わす君側の奸を排除する」と主張して戦端を開いている。防空の要があるからと言って、大公めがけて爆弾を投下できる兵士はそう多くない。
 それでも、反貴族主義者は少数ながら根を張っているし、帝国派に所属するソビエト義勇兵は君主や貴族を嫌悪していると言うから、安全の保証などありはしない。それでも彼女は「望むところ」と言い切ったのである。何時の世も、貴人の美談に弱いのが君主国の国民と言うものだ。

「アッパティーニ”准将”、ですか? アッパティーニ侯爵のご子息は確か海軍少将だった筈ですが……」

 レナート・アッパティーニは、宰相ブルーノの遠縁だ。日英海軍のエリート達を図上演習でことごとく負かせた俊英と聞くが、いくら何でも海軍の将官に戦車戦の指揮を任せるのは相当な無理や反発が伴う。余程信頼できると言う根拠が無いと難しいだろう。

「いえ、海軍少将は弟の方です。私が推薦するのは兄のアルフォンソ・アッパティーニです」

 訂正するファビオも苦笑する。「まあ、そうだろうな」と顔に書いてあった。 主要な人物は全て頭に入れている筈のカタリーナも、アルフォンソの顔を思い出すのに数秒かかった。確かにレナートの兄が陸軍に居たと記憶している。傍らに控えるブルーノに目線で確認すると、彼は頷いて見せる。後で詳しい話を聞いておこうと思う。

 アルフォンソと謁見した記憶を引っ張り出す。あれは即位直後の余裕がない頃で、綺麗な赤毛だったのを憶えているいる。
 それを褒めたところ、一緒に謁見した当主アッパティーニ侯爵が僅かに表情を歪めた。後で侯爵が息子の赤毛を嫌悪していると知り、地雷を踏んだ後悔と、そんな事で実の息子を邪険にする侯爵への隔意でどっと疲れた嫌な思い出があり、そのおかげで彼の事を鮮明に思い出した。

「確か、彼は兵站部門で、実戦経験は無かった筈ですが。そもそもロッソ卿は彼とどの様な接点が?」

 疑問符を浮かべる大公に、ファビオはアルフォンソとの出会いを語り始めた。